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精神面の成長2

■精神面の変化のもう1つは「生きることは苦行である」という前提に気づいた事

 

それまで、概念として仏教ではそう考えるということは知っていたが、まったく実感がなかった。

なぜなら私は自分に自信があり、希望に満ちて生きていたから。

自分を「とるに足る」人間だと思っていた私にとっては前提が違った。

 

子育ては今まで味わった事のない苛立ちを毎日感じることだった

自然を相手にして思い通りに行くと思い込む方が危険なのに、アッパーな万能感をもっていた私にとって思い通りにならない毎日のストレスは負荷が高かった

 

また「歴史上誰しもが当然にやってきたことなのだからできないはずがない」というのはアッパーな思考パターンの罠である。他人がどうだから、世間がどうだから、ではなく今ここにある苦しみを楽にさせてあげることに集中したほうがよい。

 

苛立つ自分が嫌いなので、どうにか楽になりたいと思うと、「生きる事は苦しい」という前提に立てば、まあしょうがないかと思えるし、今までは当たり前だった幸せにも感謝できる。

 

まあ、これは「一周回って」気づく世界なのかもしれない。

子どもから大人になるにあたり「自分はとるに足る人間だ」という自己肯定感はあったほうがいいと思うが、これもアッパーな思考だろうか。そのまま突き抜ける大人もたくさんいるだろうし、Capitalismにおいてはそのほうが成功しやすいように思える。そんな中、ビジネス界でも仏教的な考え方や瞑想を好む人が出てきているのはどういう現象なのか、改めて興味がわいてくる。

 

なお、夫はどう思うかなと思い聞いてみたら、「子どもは未熟なんだからできないというのが当たり前、だからこそ出来たときの達成感はひとしお」と言っていた。まあやるかどうか、それでできるようになったかどうかが大事で、捉え方はどうでもいいのだけれど。

精神面の成長3

■結婚や育児している人にとってのスピリチュアリティ

独身で一生を通すってこととはたぶん大きく違うのではないかと思う事。

私がこの数年で気づいたこととして、2つ。

一つは上記の「生きる事は苦しい」「今ある苦しみを解放することに集中する」という捉え方への理解、もう一つは誰かの意見、グル、占い、宗教、などなどの救済体系の存在への理解。

 

私は“スピリチュアル系”のものや人に懐疑的だったのだ。

同時に、スピリチュアリティはあると信じて疑わない。

それは個人の中にあり、個人の気づきによってのみ存在すると言えるもので、誰かがこういったからとか、○○によると、という外的な前提条件付きではありえないと思っていたため、占いや宗教などの救済体系の存在そのものに懐疑的だったのだ。

 

しかし、結婚、育児などを経て、誰かと生を共にすることは楽なことではない。

そんな苦しみの中で、苦しみを解放する術はいくつかあると助かるのだ。

たとえば占いでマヤ暦によると、とか、星の位置ではこうと誰々が言っているとか、

もしこれらを「当たる(ことがある)」と信じることさえできれば、

「夫は、娘は、自分は、こういう星の下に生まれているからしょうがないか」と救われることがある。そしてその時の苦しみから解放されるのであれば、いいじゃないか、と思えるようになったのだ。さらにこの占いの良いところは「ま、占いだから(ハズれることもある)」とやり過ごす余地もあるという点。

 

まあ誰かの教えばかり鵜呑みにしていたらダメな気はするけどね。その辺が難しいよね。ただ「内なる気づき」と「誰かの教え」が偶然にもドンピシャマッチしちゃった時にはハマっちゃうんだろうけどね、宗教とかって。

 

私自身yogaって一人でするほうが気持ち良いと感じて、集団でヨガやると体操っぽいというかあまり身体が自由に動かせないので結果として精神的にも満足度が低いというか。ただ最近ひとりでやっていると、ここの筋肉をもっと感じるにはどんな体勢がいいか、誰かを師に仰ぎたいと思う時はあるわけで。

 

スピリチュアリティについても、世間にはいろんな教えやメソッドがあるんだけれど、そういうの何か怖くて手が出せないというか。懐疑的な自分がそうするのも何か失礼な気もするし、変に私スピ系はないですから!というような虚勢を張っているところもあって。ある意味偏見を持っているし、先入観で拒否しちゃっているお堅い自分もいるんだよね。

 

そんなこんなで自分を整理しているうちに本が読みたくなってきた。

誰かの教えって助かるよね~目からウロコって気持ちいいよね~というモードにチェンジするかな。