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森での遊び

精神的な、空想の遊びが加わると、遊びの世界の幅は広がる

例えばおままごととか、大昔から子どもの遊びの定番中の定番で、

木の葉のお皿に砂をのせて、どうぞ、などとお母さん役が言うのは変わらない

ドロケイの概念はなくとも、捕える者と捕えられるもののゲームはあっただろう

他人との関わりが刺激になり、喜びになる

そこが自然のつくる森の中であろうと、人間のつくる公園の中であろうと、人間のつくる想像の世界がそこに現れる

 

その究極系はある方向ではディズニーランドであり、ある方向では公園でのDS対決だろう

 

どんな場所にいようともスマホで自分の好きな世界に行く大人が、”どこでもモンハン”を異様だと決めつける

子どもだから?子どもは公園で身体的な遊びをするべきから?子どもは森で木登りするものだから?

コミュニケーションの一部がメディアに置き換えられるから?遊びをアウトソースしているから?

 

*****

 

今や娘にとっての遊びの環境は森や海より公園が先に想起されるものになっている

その刺激に心を奪われたら最後、子どもは”刺激度”で自分の環境を決めてしまう

彼女にとって何が刺激となっているかははっきりしないが、「公園いった、お友達いた」と最近は言うのだから、

実際、森や海に言って他の子どもに遭遇する事はほとんどないし、我が家の敷地内に植物や虫はたくさんいるので、

娘は現状植物や虫よりもっと同世代の人間について知りたいという興味があり、公園が好きになったという単純なことなのだろう

 

また、近頃海岸に吹く風が強かったので、砂を何度も叩き付けられ泣いてはおんぶを求めて来た

”身体的刺激”のあまりの強さに参ってしまい、海が嫌いになったのだろう

先日は海へ向かう道中「やだ、帰る~」と泣き出す始末

 

遊びの刺激は身体能力と危機察知能力に見合うものでないといけない

そして”精神的刺激”の存在も忘れてはならない

 

きっと娘も公園で意地悪な子どもに会ったりして、海や森に行きたいという時が来るだろう

単純に夏がくればまた海が好きになるかもしれない、実際現状では彼女は水に目がない

遊具のようなわかりやすさはないが、”観察力”を高めることで、海や森で見つける虫や植物も刺激になっていくだろう

自然の創造物を楽しむには”観察力”が必要になる