農耕のはじまり

よく歴史の教科書で紀元前X年ごろ、人は狩猟採集だけでなく、農耕を始め、食料の安定的な確保が可能になった、と説明があるが、実際に人類が農耕を始めた瞬間を想像すると、すごい。

 

おそらく、アダムとイブのリンゴのように、とてつもなく美味いものを発見したのだと思う。

そこからそのリンゴをなんとか家の近くでたくさん食べられるようにならないかな、と思い始める。

そこで森で取ったリンゴの種を、家の庭の土の中に植える。

 

きっと、その時代にはそんなことを考える人は少ないから、とても変人扱いを受けるかもしれない。

むしろ、木を人間のコントロールで育てよう、なんて、それは木の神への背信行為として軽蔑されたかもしれない。

 

その人はそういった勇気と挑戦心に溢れているだけでなく、それ以前に、種から芽が出て、根を張り、やがて木になり、実や根や葉を付ける、ということを知っている。つまり、同じ森の同じリンゴの木を芽が出るところから何年も何十年も見て来たという観察眼と体験がある。もしくは人間の知的レベルがそれについての知恵を代々受け継ぐのに足りていたということかもしれない。

 

最初はきっと水をやるとか、肥料をやるとか、草をとる、なんて考えはなかったと思う。

雨がふりますように、実がなりますように、と祈る、ということが先だったのではないか。

だって元々が森に自然に生えている、そのままに生きているだけのリンゴの木を家の近くに植え替えただけだから。

 

そういう意味では現代において「自然農」と呼ばれるものは「農」なのだろうか。

きっと古代の人も、いろいろな種を植えて試したと思う。

環境があった種だけが芽をだし、実を付ける。因果関係、というやつだ。

農耕文化は、なぜ芽がでないのだろう、と探求するうちに、じゃあ山と同じ土ならいいのではないか、とか、温度や湿度の違いとかを考えて考えて発展したのだ。農は人為的に種をまくことをはじめとする様々なテクニックとテクノロジーのことなのだ。

 

私も含め「天然の」とか「自然由来の」などとつい言ってしまうが、tech,ありきの世界でそれは自己矛盾している。

自然である、ということは「なにもしない」ということだから。

 

そういえば、稲、といえば田んぼに生えているのがいかにも自然の風景のようだが、田んぼは人工物であり、テクノロジーである。

稲の原種はメコン川に生えていたらしいが、水深が2mくらいあるところからやっと顔を出す程長いそうだ。そのため、人々はボートにのって年2回稲穂を刈ったという。

今私たちが稲と思っている姿は品種改良を重ねた結果の、水深が浅くてもたくさん実る「人類のテクノロジーが生んだ稲」なのだ。

 

そう考えると、人間が生物の遺伝子操作に手を出すのは必然である。

そして潔癖な物言いをすれば、無農薬の米を食べているだけの理由では遺伝子組み換え作物を批判することはできないはずだ。

 

遺伝子異常はどこそこで自然発生している。

遺伝子組み換え作物の是非の議論の焦点は、その速さにある。